楽が立ち上がり、俺のすぐそばを横切る。
彼女の香りは鼻をくすぐるのに、僅かに指を動かすことさえできない。
今、このまま楽を行かせてしまったら、もう二度と会えないかもしれない。
引き留めなければ。
だが、楽はそれを望んでいないのに?
いや、それは萌花との離婚の目処が立っていないからだ。
俺を愛していないわけじゃない。
だから、楽をこの家に縛るのか?
たとえ夫婦にはなれなくても、明堂貿易の後継者となれば楽に裕福な生活を保障できる。
それに、俺は妻の目を盗んでこの家に通うわけじゃない。この家で楽と一緒に暮らすんだ。今までと変わりない。
だからといって、楽が幸せになれる――?
自問自答を繰り返している間にも、楽の気配は遠ざかって行く。
そして、玄関のドアが開く。
「ご飯はちゃんと食べなきゃダメだよ?」
そう言って、楽は出て行った。
「行くな……」
やっと絞り出した声が、虚しく響く。
「愛してるんだ……」
受け入れてもらえない告白が、頭の中でこだまする。
「行かないでくれ……」
もう……遅い――!
愚かな俺に残ったのは、昨夜の彼女の感触と、ゆうに三日分はある温かい料理だった。
『きみの覚悟を聞きたい』
突然現れた見ず知らずの男性からの伝言。
男性は、悠久のお父様が雇った調査員だった。
悠久の様子を聞くと、彼が身体的な苦痛を与えられているわけではないと知らされた。
悠久と離れて十日ほどが過ぎた。
修平さんが手配してくれて、私はおばあちゃんの遺産の一部を受け取り、北海道内を旅していた。
といっても、観光するわけではない。
ただ、私の父親に見つからないように、居場所を転々と移動しているだけ。
修平さんにだけ、居場所を伝えていた。
一度、修平さんが浩一くんと一緒に会いに来てくれた。
私が浩一くんと会ったのは二年前に二度ほどだったが、随分と成長した。
突然知らない家に連れて来られて、知らない男の人を本当の父親だと紹介され、あの頃の浩一くんは部屋の隅で泣いていた。
まだ、小学二年生で、父親だと思っていた
その二日後、悠久のお父様から接触があった。
私は、悠久のお父様――明堂さんにお会いすることにした。
彼の言う『覚悟』がなにかもそうだけれど、悠久のことも詳しく知りたかった。
悠久が与えられた一室に軟禁状態にあること、スマホは与えられたままだけれど、彼の意思で使用していないこと、食事などに不自由はしていないことを聞いて安心した。
「きみの望みはなんだ?」
眉間に深い皺を刻み、明堂さんは聞いた。
私が滞在している旅館の、特別室は居間だけで二十畳もあり、窓の外は一面の青。
バルコニーが湖に突き出すように設置されているから、湖の上に立っているような錯覚すらもてる。
藤ヶ谷家も裕福で、金銭感覚が 全て調査済みだとわかり、私は素直に認めた。
そうでなくても、こんな風に嫌悪を露わに睨まれたら、適当に誤魔化すなんて出来ないけれど。
「十年以上も経ってに近づいた目的は?」
「お役に……たちたくて――」
「――の結婚式の時には名乗りもしなかったのにか?」
「それは……」
尋問だ。
不倫なんてしている私が悪いのは事実だけれど、父親と言えども悠久を苦しめる明堂さんに、申し訳なさは感じなかった。
そんな自分に驚いた。
悠久と再会し、愛し合い、引き離されて、私は随分と逞しく、太々しくなったようだ。
「金が欲しいか」
「いいえ」
「では、復讐か?」
「復讐?」
「自分と母親を苦しめた近江家への復讐か? 腹違いとはいえ妹の旦那と不倫などと、汚らわしいと――」
「――妹の旦那でなければ良いと?」
「なに!?」
呼びだされた時は、怖かった。
何を言われるのだろうと、何を言われても仕方がないと思った。
けれど、こうして対峙して、明堂さんの言葉を聞いていると、恐れは消えた。
代わりに湧き上がってくるのは、強い嫌悪と憎悪。
「悠久さんが事故に遭わなければ、名乗ることはありませんでした。事故に遭った後でも、萌花が妻として彼をしっかり支えていれば、名乗ったりしなかった。家政婦として一緒に暮らし始めた後も、萌花やご家族からのお見舞いなり、電話なりがあれば、名乗ることはなかったはずです。彼が! 孤独でなければ寄り添いたいなどとは思わなかった」