楽が立ち上がり

2021071914:32

 楽が立ち上がり、俺のすぐそばを横切る。

 

 彼女の香りは鼻をくすぐるのに、僅かに指を動かすことさえできない。

 

 今、このまま楽を行かせてしまったら、もう二度と会えないかもしれない。

 

 引き留めなければ。

 

 

 

 だが、楽はそれを望んでいないのに?

 

 

 

 いや、それは萌花との離婚の目処が立っていないからだ。

 

 俺を愛していないわけじゃない。

 

 

 

 だから、楽をこの家に縛るのか?

 

 

 

 たとえ夫婦にはなれなくても、明堂貿易の後継者となれば楽に裕福な生活を保障できる。

 

 それに、俺は妻の目を盗んでこの家に通うわけじゃない。この家で楽と一緒に暮らすんだ。今までと変わりない。

 

 

 

 だからといって、楽が幸せになれる――

 

 

 

 自問自答を繰り返している間にも、楽の気配は遠ざかって行く。

 

 そして、玄関のドアが開く。

 

「ご飯はちゃんと食べなきゃダメだよ?」

 

 そう言って、楽は出て行った。

 

「行くな……

 

 やっと絞り出した声が、虚しく響く。

 

「愛してるんだ……

 

 受け入れてもらえない告白が、頭の中でこだまする。

 

「行かないでくれ……

 

 

 

 もう……遅い――

 

 

 

 愚かな俺に残ったのは、昨夜の彼女の感触と、ゆうに三日分はある温かい料理だった。

 

 

『きみの覚悟を聞きたい』

 

 突然現れた見ず知らずの男性からの伝言。

 

 男性は、悠久のお父様が雇った調査員だった。

 

 悠久の様子を聞くと、彼が身体的な苦痛を与えられているわけではないと知らされた。

 

 悠久と離れて十日ほどが過ぎた。

 

 修平さんが手配してくれて、私はおばあちゃんの遺産の一部を受け取り、北海道内を旅していた。

 

 といっても、観光するわけではない。

 

 ただ、私の父親に見つからないように、居場所を転々と移動しているだけ。

 

 修平さんにだけ、居場所を伝えていた。

 

 一度、修平さんが浩一くんと一緒に会いに来てくれた。

 

 私が浩一くんと会ったのは二年前に二度ほどだったが、随分と成長した。

 

 突然知らない家に連れて来られて、知らない男の人を本当の父親だと紹介され、あの頃の浩一くんは部屋の隅で泣いていた。

 

 まだ、小学二年生で、父親だと思っていた

 その二日後、悠久のお父様から接触があった。

 

 私は、悠久のお父様――明堂さんにお会いすることにした。

 

 彼の言う『覚悟』がなにかもそうだけれど、悠久のことも詳しく知りたかった。

 

 悠久が与えられた一室に軟禁状態にあること、スマホは与えられたままだけれど、彼の意思で使用していないこと、食事などに不自由はしていないことを聞いて安心した。

 

「きみの望みはなんだ?」

 

 眉間に深い皺を刻み、明堂さんは聞いた。

 

 私が滞在している旅館の、特別室は居間だけで二十畳もあり、窓の外は一面の青。

 

 バルコニーが湖に突き出すように設置されているから、湖の上に立っているような錯覚すらもてる。

 

 藤ヶ谷家も裕福で、金銭感覚が 全て調査済みだとわかり、私は素直に認めた。

 

 そうでなくても、こんな風に嫌悪を露わに睨まれたら、適当に誤魔化すなんて出来ないけれど。

 

「十年以上も経ってに近づいた目的は?」

 

「お役に……たちたくて――

 

――の結婚式の時には名乗りもしなかったのにか?」

 

「それは……

 

 尋問だ。

 

 不倫なんてしている私が悪いのは事実だけれど、父親と言えども悠久を苦しめる明堂さんに、申し訳なさは感じなかった。

 

 そんな自分に驚いた。

 

 悠久と再会し、愛し合い、引き離されて、私は随分と逞しく、太々しくなったようだ。

 

「金が欲しいか」

 

「いいえ」

 

「では、復讐か?」

 

「復讐?」

 

「自分と母親を苦しめた近江家への復讐か? 腹違いとはいえ妹の旦那と不倫などと、汚らわしいと――

 

――妹の旦那でなければ良いと?」

 

「なに!?」

 

 呼びだされた時は、怖かった。

 

 何を言われるのだろうと、何を言われても仕方がないと思った。

 

 けれど、こうして対峙して、明堂さんの言葉を聞いていると、恐れは消えた。

 

 代わりに湧き上がってくるのは、強い嫌悪と憎悪。

 

「悠久さんが事故に遭わなければ、名乗ることはありませんでした。事故に遭った後でも、萌花が妻として彼をしっかり支えていれば、名乗ったりしなかった。家政婦として一緒に暮らし始めた後も、萌花やご家族からのお見舞いなり、電話なりがあれば、名乗ることはなかったはずです。彼が! 孤独でなければ寄り添いたいなどとは思わなかった」